蝉の鳴き声が、降るように激しくなった。
行こうとしている夏を惜しむように、残暑を追いかけるものは健気で
あり、生命力の強さを教えてくれる。
暦は9月へと移り、それでもまだ太陽の熱さは続く。
そんなけだるい午後の中で、午睡から覚めてクーゴは呟いた。
「暑いなあ…。寝てらんないよ」
空調の効いた自室で休めば文句ない筈だが、自然派のクーゴは
外の木陰で寝そべっていた体を半分起こす。
ぼんやりと研究所の方に目を遣ると、脇のドアから出て来たケディと
目が合った。
クーゴは無邪気に彼女に向かって手を振る。
その様子を見てもクールに行き過ぎようとしたケディだったが、ふと
行き掛けて思い出したように戻り、クーゴの方に歩いて来た。
クーゴは楽しそうな顔をして、ケディを待つ。
「明日の準備は?」
ケディがチェックを入れる。
明日から1週間の予定で出かけるから、今日の午後はもう休みなさい
とキティ博士に言われ、残務処理を済ませたクーゴはのんびりしていた。
「済んだよ。つーか、別に身ひとつだし」
ケディはまた呆れ顔で言う。
「そうじゃなくて。頼まれたリストは大丈夫かって訊いてるんだが?」
「ああ、あれね。大丈夫だろ。ケディも承知してることだし」
「私に抜け目はないからな。お前とは違う。なら結構」
長い黒髪をさらっとなびかせ、踵を返すと去ろうとするケディ。
「お肌に悪いから早くお休みになって?ケディちゃん」
クーゴの冗談にケディはかっと来て振り返ったが、クーゴはまた身を
大きく広げて何事もなかったように空を見上げていた。
出発の朝。
今日からキティ博士に頼まれた用事で1週間、火星へ行く二人。
「よろしく頼みますね」
キティ博士はそう言った。そして、思い出したように。
「ああ、それから。火星には、懐かしい人達がいますよ、クーゴ。
久し振りに話も弾むことでしょう」
「懐かしい人達…?」
誰だろう。気になったクーゴだが、キティ博士は行けば分かると言って
微笑んでみせた。
火星は地球と変わらない美しい星である。
月よりは地球に似ているため、オゾン発生装置も簡単なもので
足りるし、ギャラクシーエネルギーの甦った今は、益々美しく豊かな
第2の地球と言っても過言ではなかった。
地球から移住して落ち着いている者も多くいる。
ここにも科学研究所があり、キティ博士がマーズ科学研究所と呼んで
いたそれに当たる。キティ研究所の第2ステージと言ってもいいくらい、
今は色々な役目を負っていた。
ここを訪れるのは、ケディは2回目であった。
まだギャラクシーエネルギーが復活する前に、キティ博士が開発した
装置を届けにやって来て以来。
今回も色々とキティ博士の力を得て、マーズ研究所は更に高度な
存在になるよう努力を続けているのだ。
「初めて入るな、この研究所。ケディは知ってるんだろ?」
クーゴは、しっかりとしたマーズ科学研究所の前に立って言った。
「ああ。でももう5年も前だ、来たのは。さあ、入るぞ」
ケディに促されて一緒に中へと入って行く。
「何で今回は俺も一緒なんだ?キティ博士は何も言ってくれないでさ。
行けば分かります、の一点張りだし」
「お前を紹介したいんだろう?一人でやるわけにはいかないしな」
ケディがにやりと横目でクーゴを笑った。
お前はそういうの、器用にこなすタイプじゃないから。
そう目が言っているのが分かる。
クーゴはちょっと拗ねた顔をして、ケディの後に従った。
研究所の中へと入り、設備の整った内部を見渡しながら、クーゴが
感心している。
ケディはさすがに一度訪れたことがあるせいなのか、余裕で前をどんどん
歩いて行く。そして、とある部屋の前で立ち止まり、IDコードを告げると
すんなり中へと入って行った。
クーゴも急いでそのまま中へと続く。
部屋の中には、中央奥に大型スクリーンが配置され、宇宙図が映し
出されている。その回りを色々なハイテク装置が陣取り、作動中だった。
2人の研究員が中にいて、何か作業をしている。
ケディとクーゴが現れたのを見て、一人の研究員がシートから立ち上がり、
そばに近付いて来た。その表情が何故か明るい。
「クーゴ!クーゴだろ?久し振りだなあ」
研究員は真っ直ぐにクーゴの顔を見て、笑いを浮かべながら話し掛ける。
短くさっぱりとした精悍な黒髪、強靭そうな体格、知的に光る鳶色の瞳。
年恰好もクーゴと大体同じくらいの男性である。
ケディはクーゴの様子を見た。
「ええと…」
躊躇いがちに相手を見ながら、クーゴは一瞬目が覚めたように閃き、
次の言葉を発した。
「もしかして…ゴルドか?」
相手は嬉しそうに頷いた。
「そうだ。憶えててくれたか。良かった」
その男性、ゴルドは、クーゴがサイボーグ訓練所時代の仲間の一人
だった。同じように未来を夢見て、一緒に頑張っていたあの昔の…。
クーゴにとって誰よりも心を許せたモーリは、もういない。
だが、まだここにこうして、若く無茶ばかりやっていた時代の仲間が、
自分を覚えていてくれて、変わらずに受け入れてもくれた。
ゴルドはサイボーグになってから、火星の開発チームに配属となり、
以来ずっとこの地に根付いていると言う。
今回の仕事の日程が済んだら、自宅にクーゴを招きたいとも言って
くれている。
キティ博士に頼まれた仕事は、ケディが万事把握していて、システムの
伝授を数日かけて行うらしい。クーゴはその間、火星のあちこちを
スタークローで探査して、データをケディのシステムに転送する役目。
任務が完了すれば、後は自由の身だ。
ゴルドの申し出を、断る理由など見つからなかった。
クーゴの任務は2日もあればこと足りた。
後はケディに全てを任せておけば滞りない。
だが、クーゴはケディを手伝いたくてそばにいた。
「何かやらせてくれよ、ケディ」
ケディは一心不乱にシステム改良を行なっているので、却ってクーゴが
鬱陶しい。
「今はいらん。あと一日したら手伝ってくれ」
彼の方を向きもせず、そう冷たく追い払われて、仕方なくクーゴは
研究所の外へと出た。
火星の夕暮れが、静かに近付いて来ていた。
外からは燃えるように赤く映るこの星も、暮らしてみれば地球とまるで
変わらない。美しい世界である。
クーゴは、黄昏て行く空を静かに立って眺めていた。
そしてその時、背後から、不意に呼びかけられた。
「クーゴ…?」
どこかで聞いたことがあるような、そんな優しい声に、クーゴが振り返る。
そこには、乗り付けたエアカーのドアを開け、こちらを驚いた顔で見ている
一人の女性がいた。
長いブラウンの髪。緩やかにウェーブがかかり、風にそよぐ。
利発そうなちょっと勝ち気な瞳。細い姿態。けれど、胸だけ豊かで、
それを誇示するようにフィットした、ダークグリーンのドレスを着ている。
彼女はクーゴを見つめ、じっと表情ひとつ変えずにいた。
クーゴと彼女の間に僅かな沈黙が流れた。
けれど次の瞬間、クーゴの中に遠い記憶が甦り、静寂はあっさりと
破られた。
「サヤ…」
クーゴの瞳が少しだけ困惑している。
何でこんなところで。こんなに時間が経った今になって。
「憶えていてくれたのね。嬉しいわ、クーゴ」
サヤが切なそうな微笑みを浮かべて、クーゴにそう言う。
エアカーから離れてクーゴに近付く。
長い綺麗な髪が風に揺れる。
あれから長い年月が過ぎ、自分より3つも年上でありながら、サヤは
まるで人形のように若く美しいままだった。
それにも驚いたが、一体何故こんなところで逢ってしまったのだろう?
サヤがこちらへと歩み寄る短い瞬間に、クーゴはそう考えた。
遥か昔、自分がサイボーグになる前、訓練所でひたすら前だけを見て
毎日を送っていた時に、運命の悪戯で一夜を共にしたことがある女性。
それがサヤであった。
クーゴとサヤは至近距離で見つめ合った。
「変わらないのね、クーゴ。でも…」
そう言って目を伏せて、クーゴの腕を見た。
サイボーグじゃなくて、生身の体を知っている私。
サヤは心の中でそれが嬉しい、と一瞬思った。
「もう昔のクーゴじゃないけれど。ううん、昔よりも今の方が素敵ね」
クーゴは中々思うように言葉が出て来ない。
それでも思い切って答える。なるべく自然に。
「それを言うなら、あんただって変わらないぜ。それより、何でこんな
ところ…火星にいるんだ?」
サヤは、昔のような悪戯っぽい瞳でクーゴを見上げる。
「私ね、結婚したの。旦那さまがここで働いてるのよ。実を言うと、
クーゴが来てるって、昨日聞かされて、気になって来ちゃったのね」
悪びれもせずこう言うところが、彼女の魅力かも知れない。
結婚?サヤが?
クーゴはちょっとだけその事実に吃驚したが、素直にそれを喜んだ。
「そっか。そりゃめでたいじゃねえか。だけど、その旦那も俺のこと
知ってるわけか?…え、まさか…」
「そうよ、クーゴ。ゴルドなのよ、うちの旦那さま」
サヤはそう言って、可愛らしく笑った。
クーゴは一瞬絶句した。
ゴルドにまた会えただけで充分驚愕したというのに、その上サヤ
にまで再会して、あろうことか二人が夫婦になっていたなんて。
何なんだ、この巡り合わせ…?
サヤは昔みたいに小悪魔めいた上目遣いをして、クーゴに更に
言った。
「もしかして困惑させちゃった?ごめんなさいね、クーゴ」
今となっては様々な経験を積み、多少の事に動じないクーゴである。
簡単に手玉に取られる筈はなく。
「ゴルドはいい奴だ。あんたを大事にしてくれるだろう。
幸せになれよ、サヤ」
クーゴに変化を感じたサヤは、その言葉を聞いて、それ以上何も
切り出せなかった。
寂しそうな色が、瞳の奥に浮かぶ。
「クーゴ」
その時、ケディが外に出て来て、彼の名を呼んだ。
背中を向けているクーゴに呼びかけて、その向こうにサヤの存在を
認めると、ちょっとだけ躊躇って次の言葉が出ないでいる。
「ああ、ケディ。どうした?」
クーゴは、何事もなかったように振り返って答えた。
「いや、いい。邪魔したな」
踵を返し、屋内に戻ろうとする。
「あっ、おい、何だよ。俺が手伝うこと見つかったのか?」
「…まあそうだが、私一人でも何とかなる。もういい」
何を意固地になってるんだ?おかしな奴だな、ケディは。
「今行くよ、ケディ。…じゃあな、サヤ」
サヤは、行ってしまおうとするクーゴの腕を咄嗟に掴む。
「クーゴ、待って」
思わず振り返るクーゴ。
けれど、その瞳は落ち着いていた。
まるでなだめるようにサヤに微笑んで、そっと彼女の手を解く。
そして研究所の方へ戻って来た。
サヤはずっとクーゴの後ろ姿を見つめている。
そしてケディも、その一部始終を、否が応でも見せつけられたのだ。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
時刻はもう深夜になっていた。
クーゴとケディはまだ研究所の中で作業をしている。
もう少しで切りがつくから、そう思ってもう2時間も経過していた。
あれからケディの口数が心なしか少ないような気がする。
無駄口を叩かないのが彼女の勤務態度ではあるが、そういう静かさ
よりももっと重い沈黙が、二人の間を取り巻いている。
「なあケディ」
クーゴが、しんとした室内でふと口にした。
「何だ」
ケディはスクリーンに向かってデータを入力しながら、前を向いたまま
返事をした。背中越しにクーゴがこちらを見ている気配がする。
「そろそろ片つけようぜ。また朝早くから始めねえか?」
ケディの指はコンピュータのボタンを行ったり来たりしたまま、全く
止める気持ちはなさそうだ。
「お前はもういいぞ。私はもう少しだけここに残る」
声は疲れを隠せない。悟られないようにしていても。
クーゴは答えず、あきらめたような笑みをして、シートから静かに
立ち上がった。
次の瞬間、ケディは両の肩に温かい重さを感じた。
「コーヒー入れてくるぜ」
クーゴの両手が置かれていたが、その言葉と共に素早く温もりも消え、
彼は部屋から出て行こうと入り口へ進む。
だが、ドアのところまで来て、クーゴは思い立ったように足を止めた。
顔はケディを振り向かず、前を向いたままだったが。
そして。
「あのさ、さっきはありがとな」
ケディはクーゴの背中を見つめる。
「何の事だ?」
冷静な口調だったが、こんなことを言うクーゴに内心困惑しそうになる。
「お前が呼んでくれてさ、助かったよ。気まずくて逃げ出したかったんだ、
本当のこと言うとさ。なっさけねえなあ、ばらしちまうけどさ」
クーゴはケディの顔を見ようとしないで口走っている。
頭を照れ臭そうに掻く仕草が、少年みたいに見える。
「…逢いたくない人だったのか?」
ケディは自分でも何を言ってるんだかと遠くで思いながら、クーゴに
そう問いかけた。
「いや別に。変なこと言ってすまねえ。気にしないでくれよ」
クーゴは笑ってドアを開け、出て行った。
バカだな、まったく。
気にするな、って言われれば余計気になるじゃないか。
こっちは触らないようにわざと避けてたってのに。
ケディは深く溜め息を吐いて、高い天井を見上げた。
見知らぬ女性がクーゴの腕を掴んで引き止めようとしたんだぞ?
そりゃあ、あんな場面に出くわしたら吃驚もするさ、いくら私でも。
崇拝するオーロラ姫にもう一度会えて、二人が一緒のシーンを
目の当たりにしたって何も動じないとは思うが。
いや、それこそが普通だと思って来たから、想像外の有り得ない光景
に戸惑ったんだ。
意外なことがあるもんだ。クーゴも隅におけない、そう考えたくは
なかったが、見ようによっては陳腐な愁嘆場にも見えた。
本人には絶対言ったりはしないが。
いや…。そうじゃない。
きっと、オーロラ姫に巡り会うよりももっとずっと昔の知り合いに違いない。
今のあいつの心の中に、オーロラ姫以外の女性が入る余地などない筈
なのだから。
疑心を一瞬でも持ちそうになった自分が恥ずかしい。
そういう男だろう、きっとクーゴという男は。
今日は奴の肩を持ち過ぎか?ケディ。
仕事の手を止め、自問自答していたところへ、クーゴがカップを二つ
持って帰って来た。
「はいよ、コーヒー。あとひと頑張りしたら上がろうぜ。今ロビーの窓から
外を見たら、星が半端じゃないくらい綺麗だったぞ。火星から見る宇宙
も中々いいぜ」
ケディはコーヒーを一口含んで、呟く。
「…外を歩きたいな」
クーゴはくすりと微笑んだ。
「気分転換するか?」
「いや。さっさと仕上げて後で見に行こう。お楽しみは取っておく」
いつもより何だか素直なケディに、クーゴは嬉しくてまた笑った。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
最終日があっという間にやって来て、ケディもクーゴも地球に戻る支度を
していた。背後からそっと肩を叩かれ、振り返ったクーゴを見ていたのは
ゴルドだった。
「クーゴ。手助けありがとう。世話になったよ」
にこやかな表情で、そう礼を言うゴルド。
「俺は大したことやってねえよ。みんなキティ博士とケディの力だ」
クーゴが照れてそう答えると、ゴルドは真顔をして優しく反論した。
「昔のこと持ち出すが怒るなよ、クーゴ。お前が問題を起こして、キティ博士
にドームに閉じ込められていたのを知った時は、辛かったよ。でもな、
お前は本当はそんな事で終わる奴じゃないって信じてた。
ギャラクシーエネルギー復活のためにオーロラ姫を大王星に送り届け、
本当のヒーローになったと知って嬉しかった。こうしてまた会えて、それも
嬉しかったぜ」
「ゴルド。俺は当然のことをしただけだ。それに…姫を守りたかった、
その一心でやったことなんだ。ヒーローなんかじゃねえよ」
変に照れて話をはぐらかしたりせず、こんな風に謙虚に答えるクーゴ
を見て、ゴルドは感心していた。
「お前、凄くいい男になったな。見違えたよ、クーゴ」
「いい男なのは生まれつきだぜ、知ってるだろお前も」
言ったそばから大きく笑い、ゴルドもつられて笑ってしまう。
クーゴのそういうところ、本当に変わらない。そう思って。
「ああそうだ、クーゴ。家に招待しようとしてたのに、うちの奴が体調
悪くてさ…今度埋め合わせるよ」
サヤが具合悪い?
「大丈夫か?」
さりげなく心配するクーゴ。
「いや、病気じゃないから。子供が出来たんだ」
ゴルドの誠実な瞳が、照れ臭そうな色を隠し切れない。
「えっ?ええっ?そ、そうなのか?そりゃビックリ…。いや、おめでとう」
クーゴは慌てて祝福する。
「いやあ…。俺が父親になれると思わなかったよ。サイボーグだから
人間のように簡単には行かないからな。でも嬉しいよ」
サイボケーションする前に、全員DNA管理と称して搾取された精子を
保管されていた。現代医学の力のおかげで、その頃の産物から操作し、
今は子供まで作れる時代であった。
サイボーグと人間の夫婦生活も、別段人間同志のそれと変わらない
のだが、新しい命を誕生させるほどの機能は消失しているから、ゴルド
とサヤもその手段に頼って今回子供を儲けることに成功したらしい。
ならば幸せになって欲しい。
クーゴは心からそう願った。
昔はもう帰らない。若過ぎた少年時代は、もう遠い記憶の彼方。
ゴルドはいい奴だ。本当に。
サヤも幸せになってくれ。それが心からの願いなんだ。
空が赤く染まって行く時間だ。
火星の都市部を一望出来る高台で、クーゴは風に吹かれながら、
静かに穏やかにそう思った。その時、ケディから通信が入る。
「クーゴ。ちょっと来てくれ。場所はGR13ブロック。お前に会わせたい
方がいる」
「会わせたい?今度は誰だい…」
少々不安になりそうだが、明るいクーゴはすぐに持ち直すと、元気に
返事をした。
「了解。今そっちに向かうぜ」
GR13ブロックにスタークローで向かう。
上空からその区域を眺めると、建設が完成したばかりの巨大な
ドームがあった。
赤い空の色に、薄いブルーをしたドームが美しく反映している。
「おいケディ。ドームがあるぜ。ここか?」
ケディの声は答える。
「そうだ。この中に今私はいる。ここはインセクトパークと言うところだ」
インセクトパーク…?何があるんだ、ここに?
スタークローは静かに降下して行った。
ドームの入り口らしき大きなガラス張りのドアに近付くと、すっとそれは
開いて、クーゴは辺りを見回しながら中へと踏み入った。
涼しい場所から、南国に来たような温度変化を感じ取る。
熱帯植物がジャングルのように室内に生い茂っていて、吹き抜けの
ように高い天井まで枝を這わせていた。温室のような世界。
あちこちに鳥の鳴き声。そして、夢のように美しい蝶や珍しい虫達が
夥しく自由に楽しそうに飛び回っている光景が広がる。
「すげえ。ここは別世界だ、まるで…」
クーゴが感動のあまり呆けていると、奥のバナナの木の陰から、ケディ
が姿を現した。
「どうだ?素晴らしい世界だろう?」
ケディも癒されているのだろうか、心なしか声が明るい。
「びっくりするぜ、火星にこんなところがあるなんてよ」
クーゴはまだ辺りを見上げ、緑の香りを吸い込んでいる。
「完成したばかりなんだ。公開はこれから。私とお前だけ特別に許可
されて、一足早いお披露目の席に呼ばれたってわけだ」
クーゴは我に返り、不思議そうに訊ねた。
「一体何で俺達が特別待遇なんだ?」
その答えは、ケディではなく、男性の声で返って来た。
「わしが招待したんじゃ。ようこそ。インセクトパークへ」
椰子の木の陰から、サファリ風のスーツを着た、ドッジ助教授そっくりの
老人が姿を見せた。
「!!ドッジ助教授!?」
クーゴはそう言った後で、すぐさま慌てて訂正する。
「ああっ!!ヘボさんだ」
「ヘボじゃない、ヘボンだ!まったくもう。覚えておったな、クーゴ」
そう言いながらもニコニコとしている。
「いやあ。お久し振りです。お元気だったんですねえ!しかもこんな
立派な虫の王国なんか建てちゃって…」
子供みたいな言い方をしているが、クーゴは凄く嬉しそうにヘボン氏の
手を取った。
ヘボン氏も同じく嬉しそうに笑う。
「いやあ。わしが一人で建てたわけではないんじゃよ。しかし、珍しい蝶
を持ち帰って発表したら、協力してくれる理解者がいたのだ。調査した
ところ、火星の土や木とその蝶の相性が銀河系一合うと判明したんでな。
とんとん拍子に、保護し公開をするパーク建設となったわけなんじゃ」
ケディも補足する。
「ヘボン先生の長年の夢がここに完成したんだ。実はドッジ助教授にも
内緒でここを建設していて、これから脅かそうと企んでいる」
「兄にも心配をかけていたんでな。これで安心することじゃろうて」
またもや幸せそうに満面の笑顔を見せる。
「そうだったんですか…。いやあ、良かった良かった。俺も心配してた
んですよ、ヘボン先生。あの後ドクンガにやられてないかって」
クーゴは悪気もなく屈託もなく、そう言って笑った。
「そうなんじゃよ!」
ヘボン氏は、急に大きな声でクーゴに言った。
「その貴重な蝶というのが、実はドクンガなんじゃ!ギャラクシーエネルギー
が復活して、今まで見たこともない素晴らしい蝶に甦ったんだよ」
ヘボン氏の教えてくれた事実に、クーゴはまたもや吃驚する。
「ええっ!?」
ドームの中に作られた夢のようなインセクトパーク。
内部をヘボン氏に案内してもらい、クーゴとケディは満ち足りた気分で
歩を進める。
足元はそのまま一面火星の赤い土肌で、人工的に作られたドームなのに
そこここが自然の雰囲気のままだ。
育成する生き物達が全て、伸び伸びとしているようにも感じられる。
ここには生き生きとした大気すら存在するのだ。
「これがドクンガじゃよ」
ヘボン氏は高い木の幹に止まっていた、美しい青い蝶を指差して言った。
「オーロラ姫には感謝しても言い足りない。平和が戻り、自然が甦り、
生き物は元の美しい姿に返った。あのドクンガがこんな素晴らしい蝶に
なったんだ。わしの夢が叶った。そのお礼をわしはどうしても姫に伝えたい。
それで、無理を言って、キティ博士に内緒でお願いをしたんじゃ」
クーゴがヘボン氏の方を真顔で振り向いた。
ケディが、そのことについて説明をしてくれた。
「研究所のシステムのためだけじゃなかったんだ。今回火星を訪れた
目的は。このパークを、ひとめ大王星のオーロラ姫に見せて差し上げる
ための…計画もあったんだ」
クーゴが驚いてケディを見つめた。
「今夜これから、大王星とここを繋ぐ。クーゴ、ヘボン先生と一緒に
報告を頼む」
クーゴは唖然となった。
今、ケディは何て言ったんだ?
大王星とここを繋ぐ、って言ったか?
そんな、何の心構えもなく、俺はどうしたらいいんだ?
クーゴは言葉を失っていた。
「私は通信を司る役目があるから、席を外す。いいか、クーゴ。
それでは後を頼みます、ヘボン先生」
長い髪を翻して、颯爽と立ち去ろうとするケディ。
「あっ!おい、ケディ!待てよ」
慌ててケディを追おうとし掛けたクーゴに、ヘボン氏が話しかける。
「クーゴ。わしの願いをそばにいて見届けてくれんか。一緒にあの
ドクンガを見守った者として」
ヘボン氏の声は真剣だった。
クーゴは予期もせぬ現実にうろたえてはいたが、その思いを聞くと
心を落ち着かせ、目をしっかりと見開いて答えた。
「分かりました。ヘボン先生」
辺りはもう宵闇の気配がする。
ドームの天井は半透明だが、空に星が瞬き始めているのが見える
ようだ。室内にはあちこちに間接照明が満ち始め、その柔らかな光
の中で、緑も虫達も静かに夜を迎える準備をしている。
緑を少し掻き分けるようにして一番奥に進むと、そこには木の葉に
縁取られた大きなスクリーンが配置されていた。
普段はこのパークの映像が見られるらしいスクリーン。
けれど今夜は。今夜限りは、ここが大王星に繋がるドアになる。
暗かったスクリーンに光が差し込んだように、画面が明るくなった。
そして、4分割されたパネルが目に飛び込んで来た。
1面に光り輝く星。2面には水の流れる世界の画像。3面、豊かな土壌
に明るい空。4面には、キティ科学研究所が。
「こ、これは…」
クーゴは言葉を失うほどに驚いて、釘付けになった。
そして、その4面それぞれに、次の映像が始まった。
2面のジョーゴの姿。変わらない物腰。嬉しそうに言葉をかける。
「クーゴ!ハッカ!…オーロラ姫!」
3面のハッカ。照れ笑いが可愛い。
「元気だったか、みんな?ああ、ひ、姫!姫だ…」
1面に現れたオーロラ姫。美しいシルクホワイトのドレスに身を包み、
優しい笑顔で胸を詰まらせながらやっと答える。
「皆さん…」
クーゴが何も言えず、ただ感激した表情でいたところへ4面の画像が
入って来た。
「皆さん、揃いましたね」
優しい声のキティ博士と、その隣りにいるのはドッジ助教授。
「ヘボンめ。こんな計画を内緒にしおって」
そう小さく、皆には分からないように呟いて。
ヘボン氏は全員が集ったのを確認すると、挨拶を始めた。
「皆さん、今日はありがとう。そして、平和を再びありがとう。私から
せめてものお返しを受け取って下さい。キティ博士、願いを聞き入れて
くれて感謝致しますぞ」
インセクトパークの幻想的な光景が、まるでその場にいるような臨場感
を持って映し出された。
夢のような世界。夢のようなひととき。
そして、夢のような再会だった。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
スターシークに乗り込もうとしてヘルメットを装着し、フードに手を当てて
いたケディに、クーゴが呼び掛けた。
「ケディ」
ケディはいつもと同じ、クールな表情を変えもせずにこちらを向く。
「色々ありがとう。改めて礼を言うぜ」
クーゴの照れたような嬉しそうな笑顔が、とても清々しい。
「ヘボン先生の願いのためにやったことだ。礼を言われるほどのことじゃ
ない」
相変わらずなケディ。でも、そんなケディを可愛いとさえ思う。
「しかし…。繋がれるのが大王星だけかと思ってたら、ジョーゴやハッカや
キティ博士まで。ケディには今回、してやられたぜ」
そう笑って突っ込むクーゴに、ケディはまた上を行く余裕の笑みを返し
答えた。
「嘘は言っていないぞ、私は。それ以上の仕事をいつもしたいと思っている
だけだ」
そう言い放つとケディは、真っ直ぐに前を見てスターシークのエンジンを
吹かす。
「さすがだ、ケディ」
ケディにクーゴの褒め言葉は聞こえなかったが、彼女の瞳は生き生きと
輝いて見えた。
クーゴの背後で、優しく微笑みながら二人を見守っているヘボン氏が、
ケディに手を振った。
ケディは潔い仕草でヘボン氏に敬礼をしてみせると、マシンのフードを
閉め、颯爽と飛び立った。
クーゴもヘボン氏を振り返り、笑顔で最後の挨拶をする。
「それじゃ、地球に戻ります」
「キティ博士と兄に、くれぐれもよろしく伝えてくれ。頼んだぞ、クーゴ」
「はい!」
スタークローも発進した。ケディの後を追うようにして、火星からは
二機の宇宙艇が去って行った。
その行方を、ヘボン氏が満足そうな表情で見つめていた。
空色のドームの上空に溢れるような星々が広がり、銀河宇宙はひとつ
になって繋がっている。
地球も火星も、水の惑星も、泥の惑星も。そして、大王星も…。
同じ時を共有し、今も同じ気持ちを胸に抱いたまま。
― あなたがたに会えて、幸せです… ―
オーロラ姫の声がどこか遥か高いところから、響いたような気がした。
*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*
●2003・09・12更新
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